デフレからの脱出準備

植村 修一
コンサルティングフェロー

ついに本屋の店頭に、「インフレ」をタイトルの中に含む書物が登場した。まだ「デフレ」を冠した書物が数では圧倒しているが、つい1年ほど前まで、「21世紀はデフレの時代」とか「果たしてわが国はデフレ・スパイラルから脱出できるか」といわれていたのに比べ、明らかに様相を異にしつつある。人々の気分は移ろいやすいものであるが、果たして本当にデフレ脱出間近と見るべきだろうか。

デフレとデフレ期待

まず、そもそも今現在がまだデフレであるかという点であるが、GDP統計上の物価指数であるGDPデフレータを見ると、この4-6月期は前年比マイナス2.7%であった。詳しいことは省くが、GDPデフレータには、統計技術上他の物価指数に比べ下方バイアスが働くとされている。ちなみに、7月の消費者物価(除く生鮮食品)の前年比は0.2%のマイナス、同月の国内企業物価は逆に1.6%のプラスとなっている。どの統計で見るかによって状況は変わるが、総合的に見て、「デフレから脱出した」と判断するには無理がある。しかし、今後の経済を考える上で重要と思われるのは、人々の物価の先行きに対する見方が変わりつつあることである。

経済学では、経済主体による多くの意志決定は、現在の出来事のみに依存するのではなく、将来の出来事に関する予想や期待にも影響されるとする。たとえば、人々が投資をする際に問題とする利子率は、インフレ率を考慮した実質の利子率とされるが、ここでいうインフレ率とは現在の値ではなく、先行きに対する予想すなわち「期待インフレ率」である。長らくデフレが続いたので、これまで期待インフレ率はマイナスであったと思われるが、そろそろこれがプラスになっている可能性はないだろうか。

デフレ期待変化の背景には景気回復あり

言うまでもなく、期待そのものを観察するのは難しい。実証分析の世界では、期待インフレ率を何らかの方法で推計するが、その際、企業が抱く期待については、日銀短観における価格判断項目(先行きの製品価格や原材料価格について上昇と見るか低下と見るかを問う)がよく用いられる。

一方、家計についてはこれまであまり統計そのものがなかったが、日本銀行がこの6月に行った「生活意識に関するアンケート調査」(全国の20歳以上の個人を対象とし、有効回答者数は2890人)には、物価が、現在は1年前と比べて何%程度変化したと感じているか、先行き(1年後、5年後)何%程度変化すると思うかについて、具体的な数値を記入する項目がある。

物価に対する実感(1年前比)については、「物価は下がっている」「物価は上がっている」との回答比率がともに22.0%と拮抗しており、変化率の平均値はプラス0.2%であった。これに対し、1年後の物価については、「物価は上がる」との回答比率が40.0%に達し、「物価は下がる」の6.3%を大きく引き離すとともに、変化率はプラス1.6%となった。さらに5年後の物価については、「物価は上がる」との回答比率が6割を超え、今後5年間の年平均変化率はプラス1.9%であった。

期待形成のメカニズムはよくわかっていないが、最近の原油価格の高騰がガソリン価格の上昇などを通じて消費者にも影響を与えている可能性があるとともに、同じアンケートで景況感が過去1年間かなりの改善を見ていることに照らしても、背後に景気回復の実感があると思われる。消費者コンフィデンスの改善傾向は、消費者態度指数など他の調査でも確認されている。

依然慎重な日本銀行

世の中のデフレ期待が薄らぐ中でとくに注目されるのが、日本銀行の金融政策である。現在日本銀行は、1)春と秋に経済・物価情勢の展望を明らかにした上で、毎月これを点検した結果を金融経済月報としてまとめるとともに、2)金融政策運営のフレームワークを予め定めることによって、金融市場との対話や、経済主体の期待の安定化に努めている。

まず1)の展望であるが、本年4月のレポートでは、「年度を通じて小幅の物価低下圧力が残存する可能性が高い」としていた。9月10日に公表された直近の金融経済月報でも物価の先行きについて、「消費者物価の前年比は、(略)基調的には小幅のマイナスで推移すると予想される」とし、なお慎重な見方を崩していない。

次に2)の政策フレームワークであるが、日銀は2001年3月以来いわゆる量的緩和政策をとっている。これは、名目金利をゼロ以下には下げられないもとで、金融調節の操作目標を、金融機関が日銀に預ける当座預金の残高とするとともに、こうした措置(事実上のゼロ金利政策)を、消費者物価の前年比伸び率が安定的にプラスになるまで行うというものである。ここでのミソは、政策継続期間のコミットメントを、物価の将来予想ではなく、前年比という過去12カ月間の実績に委ね、しかも、それが基調として続くという二重三重の縛りをかけたことである。

一般に、政策の効果が出るまでにはタイムラグがあるので、政策当局者は常に先行きを睨んで(preemptiveに)動くべきであるとされるが、日銀の量的緩和政策は、フォワード・ルッキングではなく、完全に後ろ向き的な点で極めて異例である。

今は落ち着いている金融市場

こうしたフレームワークのもとで、日銀が物価の先行きについて慎重であるということは、政策変更のタイミングはまだかなり先との観測を金融市場にもたらしている。円金利先物で見る3カ月物の金利は、来年6月時点でなお0.1%程度に止まっている。このように、現行の政策フレームワークが人々の期待や市場金利の形成を安定化させる効果は「時間軸効果」と呼ばれている。

インフレ・ターゲティング論者は、中央銀行はインフレ目標を掲げることで人々の期待に直接働きかけ、(期待インフレ率の上昇が実質金利を低下させるという経路を通じて)デフレからの脱却が図れるとするが、日本銀行が示す物価の見通しが慎重であることが、インフレ・ターゲティング論者を含め金融緩和の継続を求める人達を安心させているという、やや皮肉な事態が生じている。

デフレ脱却に向けた準備

この4-6月期の実質GDP成長率(2次速報)は市場予想を下回る年率1.3%のプラスに止まった。四半期毎の成長率にはかなりの振れがあるので、この数字をもって日本経済が減速過程に入ったと見るのは早計であるが、先行きの景気については、「デフレ基調を脱却できるだけの力強さをどの程度持続できるか」という点で多くのエコノミストが確信を持てないでいる。しかし、ひとたび確信が生まれ始めた場合、一体何が起きるであろうか。とくに、長い年月超低金利と金融緩和しか経験していない金融市場の反応は予測がつかない。

こうした中、9月14日付けの日本経済新聞は、財務省が国債の安定消化を目指して、変動利付国債や物価連動国債といった「インフレ対応型」国債の発行を増やす方針であると伝えている。いろいろな所で準備が始まるであろうが、何よりも新たな試練(?)を迎える日本銀行の対応が注目される。

2004年9月21日

2004年9月21日掲載

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