碩学の死を悼む:Robert Emil Hudec (1935-2003)

荒木 一郎
上席研究員

去る3月12日、タフツ大学フレッチャースクールのロバート・エミル・ヒューデック教授が休暇先のフロリダで急逝した。ヒューデック教授は、ジョージタウン大学のジョン・H・ジャクソン教授やジュネーブ大学のエルンスト・ウルリッヒ・ペータースマン教授と並んで、世界貿易機関(WTO)で交渉される貿易ルールを中心に研究する「国際経済法」という学問分野を創設し、発展させてきた第1世代の学者であった。

関税および貿易に関する一般協定(GATT)の下で交渉されたケネディ・ラウンド多角的貿易交渉(1964~67年)の際、ヒューデック氏はUSTRの前身である米国通商交渉特別代表部の法律顧問補佐を務めた。同氏はエール大学で法学を学んでおり、後に学者の世界に進んでミネソタ大学ロースクールの教授となり、2000年に退職するまで、同大学で活躍した。

その後、家族の住むボストンに移住したが、引き続きフレッチャースクールの教授として教育と著作の両面で活動を続けていた。実際、彼は死の間際まで大著Enforcing International Trade Law: The Evolution of the Modern GATT Legal System(Matthew Bender, 1993)の続編の執筆にいそしんでいた。この著作は、GATTの最終期(1990~95年)におけるパネル先例の法理の展開を分析しようとするものであった。個人的な話になるが、今からほんの数週間前、私は当研究所の相樂希美研究員の研究成果に基づいて彼の原稿にコメントを送り、休暇先から「有益なコメントに感謝する」とのEメールを受け取ったばかりであったので、未だに彼の死が信じられない思いである。

ヒューデック教授は、人脈づくりや弟子の育成に熱心な方ではなく、1人で活動することを好んだが、流麗な文体で鋭い判例批評を展開する論文は幅広い読者層に読まれた。また、自らがGATT・WTOの紛争解決手続のパネリストとなることを通じ、判例の形成に積極的に貢献した。彼は、学者からも実務家からも敬愛されていた。このことは退官記念論文集The Political Economy of International Trade Law (Cambridge University Press, 2002)の寄稿者リストに綺羅星のごとき論客が名を連ねていることからも分かる。当然のことながら、ジャクソン教授もペータースマン教授も同書に寄稿している。

当研究所の前身である通商産業研究所(MITI-RI)は、かつてヒューデック教授をシンポジウムに招いたことがある。1990年6月のことであった。時期に注目していただきたい。失敗に終わった1990年12月のブラッセル閣僚会議の直前である。ブラッセルでウルグアイ・ラウンドは終結するはずだったのが、農業問題を巡る対立等が原因となって合意テキストを作ることができず、にわかに交渉者の間に危機感が強まったのである(これは、9年後のシアトル閣僚会議の失敗により、交渉者の間に「何とかしなければならない」との危機感が強まった事情と若干似通ったところがある)。もちろん、シンポジウムが開催された当時、そのような展開になろうと予想した者は数少なかったに違いない。ブラッセルでの「交渉パッケージ」は徐々に出来上がりつつあり、紛争解決の分野においては、完全な合意テキストこそなかったものの、現行の紛争解決了解(DSU)の原型は既に姿を見せ始めていたのである。そこでは、敗訴締約国によるパネル報告書の採択阻止(いわば「拒否権」の発動)を封じるため、紛争解決手続に「自動性」を導入しようという議論が大勢を占めていた。その目的がGATTの紛争解決手続の「司法化」を一層進めることによって、米国通商法301条に見られたようなGATT枠外の一方的措置を抑え込もうとすることにあったのはいうまでもない。

DSUの「自動性」導入に批判的だったヒューデック教授

ヒューデック教授は、このようなやり方には批判的であった。彼はGATT体制の政治的基盤はまだ脆弱だと判断していたので、そのような「自動性」のある準司法的手続は長期的には維持不可能であると考えていた。彼はより漸進的な方法を好んだ。MITI-RIシンポジウムでの「GATT紛争解決手続の司法化(legalization)」と題する講演で、ヒューデック教授は、そのような人為的な方法によらなくても、既にGATT紛争解決パネルの先例は、プロフェッショナルかつ一貫性のある方法で解釈問題を処理するようになっており、その意味での司法化は既に達成されつつあると主張したのである。

彼は次のようにも述べている。

「もし1975年以来GATT紛争解決手続に提出された各国政府からの意見書をすべて閲覧することができるならば、各国政府の議論の立て方が徐々に変化してきていることに気づくであろう。ある時点までは、各国政府は、単に関係するGATT条文をどう解釈すべきかを述べ、その解釈から導かれる結果が政策的にも最善の方策であると申し立てるだけであった。今や各国の意見書はずっと長くなっている。そこでは緻密な文理解釈が行われ、関連するGATT事務局の報告書やパネルの報告書のうちで当該国の主張に有利なものがすべて列挙され、関連条文の交渉過程からも当該国の主張に有利なものが導き出されている。政策方面にわたる議論ですら、より長く、より緻密なものになっている。ここから導かれる教訓は次のことである。パネルが法的判断を下すに当たりこれらの法源に依拠するようになれば、紛争当事国の法律家たちも自らの意見書の中で同じ法源に基づく解釈論を展開するようになるだろう。これは歓迎すべき事象である。すべての当事者の側において法技術のレベルを向上させるからである」*1

さて先を急いで1995年、次いで2003年の状況を確認しておこう。ヒューデック教授の警告にもかかわらず、「自動性」の要素をすべて盛り込んだDSUが採択された。当初、これはすべてのWTO加盟国から歓迎された。効率性と有効性が格段に強化された新たな紛争解決制度は、しばしば王冠上に燦然と輝く宝石に例えられた。しかし、今となってはこの表現が聞かれることはほとんどない。マイク・ムーア前WTO事務局長がその退任演説(2002年7月)において紛争解決に一言も触れなかったことは象徴的である。最近まで紛争解決上級委員会委員を務めていたクラウス・ディーター・エーラーマン教授は「蜜月は終わったのだ」と述べている。*2

身動きがとれないWTOの紛争解決制度

現在、WTOの紛争解決制度は、左からも右からも北からも南からも攻撃を受けている。左からの攻撃とは、とりわけ環境問題についてパネル・上級委員会の判断に批判的な市民社会のグループからの糾弾のことである。右からの攻撃とは、伝統的な保護主義勢力からのもので、パネルや上級委員会が米国通商法(アンチダンピングやセーフガード)の規定について次々に協定違反との結論を下すことに対する異議申立てである。北からの攻撃とは、例えばこれらの勢力の声に耳を傾けざるを得ない米国政府からのDSU批判のことである。南からの攻撃とは、市民社会グループからいわゆるアミカス・ブリーフ(パネルが求めていないにもかかわらず一方的に送りつけられてくる意見書)を受け取ることにしたパネル・上級委員会の慣行に対する開発途上国からの反発のことである。緊張関係があまりに高まっているので、筋金入りの自由貿易主義者であるAEIのクロード・バーフィールド上席研究員ですら、WTOは噛み切れないだけの固まりを口の中に含んで身動きがとれなくなっていると評している。そこで、バーフィールド氏は、パネル・上級委員会報告書の採択に当たり「ブロッキング・マイノリティ」という制度を導入せよと提唱している。すなわち、WTO加盟国の3分の1以上の国であって、WTO加盟国総貿易量の4分の1以上を占める国々が採択に反対するときは、当該報告書は採択されないものとせよというのである。*3

「新しいDSUについて検討したことのある有識者は、WTOの中には誤判であると考えられるパネル・上級委員会の決定をくつがえすことができるだけの有効な立法部門が存在しないという事実について、ほぼ一様に不安感を表明している。何らかの意味での政治部門による見直しの必要性はしばしば唱えられてきた。バーフィールド氏は、この評者(=ヒューデック教授)が1992年に行った提言、すなわち加盟国の過半数ないし相当数の少数加盟国にパネル報告書採択の拒否権を与えるべしとの提言を引用している。10年経った今、改めて考えてみると当時の私の中間案は実際にはうまく行かなかっただろうと思うようになった。バーフィールド氏は英雄的にもこれと反対の前提に立つが、私はいかなる政府もそのような拒否権を客観的に発動することはできないと確信する。拒否権制度は、すべての法的決定に対する政治的フィルターになってしまうだろう。ただそれだけのことである」

「(特定数の国に拒否権を与えるという)この案がDSUの交渉者によって採用されなかったのは、WTOの他の部分のほぼすべてについてウルグアイ・ラウンドの交渉者がコンセンサスによる意思決定にこだわったのと同じ理由からである。すなわち、特定国のブロックによる集団投票行動が米国、そしておそらくEUの利益を侵害するだろうというおそれがあったからである。過去7年間のWTOの活動実績を見ても、このおそれの理由が減少したと考える根拠は見当たらない。拒否権を一定規模以上の少数国集団に与えるという選択は、パネル・上級委員会の判断をブロックする権能をより広範囲の国に散らす結果をもたらすであろうが、それはおそらくWTOの法制度を『中ぐらいの大きさの蝿だけをつかまえる蜘蛛の巣』程度のものにしてしまうことになろう」

「したがって、(政治部門による)見直しが不可能である現行制度からの離脱が必要であると考えられるならば、すべての被提訴国に拒否権を与えること、すなわちGATT時代の『コンセンサスによる採択』という方式への回帰しか実行可能なオプションは存在しないと思われる」*4

第2、第3世代の学者たちの課題となるDSUの見直し

「だから言ったじゃないか」というヒューデック教授の声が聞こえてくるような気がする。もちろん、現段階で特定の結論に飛びつくのは早すぎる。ドーハ・ラウンドの交渉議題の1つとして、DSUの見直し交渉が2003年5月31日を交渉期限として進行中であるからである。その間、WTO研究者は、紛争解決制度の機能について更に緻密な検討を加えていく必要があろう。その重責は、第2世代、第3世代の学者たち、すなわち上記のヒューデック教授退官記念論文集に寄稿した若い教授たちの肩の上にのしかかっている。

2003年4月8日

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脚注
  • *1. ヒューデック教授の演説草稿(通商産業研究所資料)による。
  • *2. Claus-Dieter Ehlermann, "Tensions between the dispute settlement process and the diplomatic and treaty-making activities of the WTO" World Trade Review (2002), Volume 1, Issue 3, p.302.
  • *3. Claude E. Barfiled, Free Trade, Sovereignty, Democracy: the Future of the World Trade Organization (The AEI Press, 2001).
  • *4. R. E. Hudec, "Review article," World Trade Review (2002), Volume 1, Issue 2, p. 222.

2003年4月8日掲載

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