日本人の忘れもの-知的好奇心

奥村 裕一
コンサルティングフェロー

はや2003年が明けた。21世紀に入ってもう3年目である。昨年は、本当にいろんなことが起きた。時代の変わり目というのは、あちこちで軋みが生じ、あるときは誰にも気付かれずに静かに、あるときは音を立てて世の中は変わっていく。そういう中で、全く変わらないものもある。

昨年、二人の日本人がノーベル賞を受賞した。小柴昌俊氏と田中耕一氏である。マスコミは、彼らの受賞を日本人初のダブル受賞として、やんやのもてはやし方をした。やれ、日本の科学技術の水準は捨てたものではないだの、田中さんにいたってはやれサラリーマンの鑑だなどとかしましいこと極まりなかった。

ノーベル賞受賞の最大要因は何ものにも捕われない知的好奇心

しかし、ここで忘れてはならないものがある。お二人に共通しているのは、丹念にデータを積み上げ、微妙な変化も見逃さない本当にきめ細かい観察眼である。小柴さんは、ニュートリノという地球を素通りして通常なら何の痕跡も残さない素粒子のわずかな痕跡を見つける装置を執念で開発され、87年には、大マゼラン星雲の超新星爆発の際のニュートリノの観測に世界で初めて成功。田中さんは、専門外の生化学に取り組み、これまでの常識を破ってたんぱく質のイオン化に成功し、微妙な質量の相違を検出できる装置を開発された。今後ゲノム解析の応用による新薬開発などに大いに期待されているものである。ただ、米メリーランド大学の教授らが将来伸びる技術と見抜いて欧米でまず広まり、それが逆輸入される形とはなったが。

振り返ってみると2001年の受賞者の野依良治教授は、物質的には同じでも、右手と左手の関係のように構造が対称的な物質があるが、有用なタイプだけを効率よく作り出すことができる技術を開発された。これも医薬品の開発に大いに役立っている。また、白川英樹博士は2000年の受賞者。今ではタッチパネルなどに使われている通常では考えられない通電性の高分子化合物の開発に役立つ研究。そのきっかけは、学生による実験上の手違いから生じたものだったらしい。

以上が2000年に入ってからの日本人のノーベル賞受賞者の業績である。いずれも共通していることは、何ものにも捕われない旺盛な知的好奇心が原動力となっていることではないだろうか。観察者として自然界の動きをなぜだなぜだと問い詰め問い詰め、真理に迫っていく、時にはこれまでの科学常識と違う現象に出会う、それでもそれを決して見逃さず、新しい真理に迫る。また時には、その検証に非常に時間を要する。こうした人間の所作の賜物が、新しい発見、発明につながっていくのではないか。そしてそのエネルギーの原動力は、何はともあれあくなき「知的好奇心」だと思うのである。

ただ、この「知的好奇心」の結果は、時としてこれまでの常識と全く異なる結果を生むこともある。その際たるものが、歴史上では、コペルニクスの地動説であり、ガリレオ・ガリレイは、自身の天体観測による検証を経て当時の神学界と敢然と戦い教会から罰せられても屈しなかった。

経済や行政の分野こそ知的好奇心の導入を!

ところで、あくなき「知的好奇心」は、実は科学技術の分野に限らない。社会科学の場合もそうであるし、いや、経済や行政や政治のあらゆる社会の生々しい分野でこそむしろ必要なことではないだろうか。一見こうした分野では、知的好奇心など関係ないように見えるが全くそうではない。知的好奇心が旺盛でないと経済の複雑な仕組みは見えてこないし、経営の本当のニーズもわからない。行政は、それこそ何をして良いか何をすべきかすべきでないか混迷するのみである。政治も同様である。

ただ、実は、知的好奇心が生きてくるのは、それを表現する自由があってこそ、なのではないかと思っている。ガリレオの時代の自然科学を見るとわかるが、いくら知的好奇心があっても密かにそれを思っているだけ、あるいは単に自分だけの考えに留めておくのでは心の中の遊びに過ぎず、社会的には全くの意味を成さない。コペルニクスの説は、本人の意思で晩年まで出版されず、社会的には眠ったままであったそうだ。一方、社会の常識に立ち向かったのが、ガリレオだ。ここに、いかに表現の自由が大切であるかがわかろうというものである。ただ自然科学の分野では、時代は進み、「知的好奇心」に従って堂々と既存の常識に立ち向かっていくことは今や当然のこととなっている(もっとも日本ではまだこの分野でも権威がはびこっているようだが)。

「知的実験」の実行には制度もさることながら、心理的束縛からの開放が必要

しかし、社会的分野では行為の対象が社会であり、知的好奇心を満たすには、まず、社会的行動の自由がよりいっそう自覚的に確保されなければならない。にもかかわらず、日本には、社会的分野になればなるほどこの自覚が薄いのではないか。知的好奇心が発露される自由がないと社会の進歩につながらない。よく、社会科学は、あるいは、政策や経営は実験できないからという議論がなされる。本当にそうだろうか。新しい政策や経営の導入は、それこそ実は実験ではないか。そして、小さな失敗を繰り返して政策や経営も進歩してきたのではないか。あるいは、変更を加えてきたのではないだろうか。勿論、社会の場合は可逆的でないという意味で自然科学の実験とは違う(厳密に言えば自然科学も真に可逆的な実験はないのだが)。また、実験という言葉の持つ響きになんとなく社会に対して不遜な行為だというニュアンスを感じてしまうのかもしれない。しかし、社会に対しても「知的好奇心」を大いに働かせ、「知的実験」をして政策をあるいは、経営を変えてみる姿勢が必要であるような気がしてならない。日本人は、この知的好奇心を忘れているのではないか。あるいは忘れさせているのが自由の束縛であろう。自由の束縛といっても日本は、勿論自由主義民主国家であるから、制度的に自由を奪われているわけではない。問題は、各自の心の中にある心理的束縛である。この心の中の不自由から各自開放され、いや各自が自覚して自らを解放し、知的好奇心の大いなる旅に出ることが、今もっとも求められているように思う。そうして初めて、日本社会も本当の意味で国際社会に通じる輝きを見せることができよう。

2003年2月4日

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2003年2月4日掲載

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