「起業家社会」化への日本の課題とは?

安田 武彦
客員研究員

4月26日、「2002年版中小企業白書(以下「白書」)」が閣議決定された。白書に目を通して痛感したことの1つは日本が「起業家社会」へと変貌を遂げるには、なお、大きな課題があるということである。今回のコラムではこの点について述べることとする。

「起業家社会」とは? その意義とは?

「起業家社会(entrepreneur society)」という言葉は、未だ社会的に定着した言葉ではなく、なじみの無いものかもしれない。海外では、「新しいアイデアを実現するために、新規起業者が次々と現れる社会」という程度の意味で使うことが多く、ここでもそういった使い方をしよう。それでは「起業家社会」と非「起業家社会」では何が違うのか。この2つを分ける必要があるのか?

どんな社会でもビジネスプランを考えたり、奇抜な発想をする人はいる。こうしたものの多くは大概、馬鹿げたものであるが、中には本当に世の中を変えるものが存在する。しかしその違いはそれが実現し市場の審判を受けるまでわからない。ところが、変わったアイデアを持つ人が市場の審判に至るか否かは、起業の容易性に依存するところが大である。何故なら、既存企業は既存商品を存立基盤としており、そこから得られる果実を犠牲にしてまで、新奇な挑戦に賭けることは少ないからである。

かくして起業が容易であり、その結果、起業者が次々と現れる「起業家社会」は非「起業家社会」より活発にイノベーションが行われ、より元気な経済となると考えられ、欧米における実証研究もその仮説を支持している。

日本が「起業家社会」に復帰するために中小企業白書が指摘すること

ところが、現在、日本の開業率は事業所ベースで見て約4%、「ヨーロッパ中小企業白書」の記載によると先進国中最低水準である。こうした状況については国民性や文化の違いに原因を求めることが多いが、それは適当ではない。

すなわち、高度成長期の日本では開業率は10%近い水準であった。もっと遡ると大正時代からつい最近まで、第二次世界大戦とその後の混乱期を除いて日本の事業所数は増加傾向にあったのである。その背後には廃業を上回る盛んな開業が存在したわけであり、低開業率に直面するこの10年の状況はむしろ、過去100年で見ても「例外的」事態なのである。従って開業率の低下の原因は国民性や文化といった要因に求めるわけにはいかないのである。

「2002年版中小企業白書」では近年の開業率低下の原因を低成長経済への移行と事業者対被雇用者収入比率(=個人企業の営業利益/賃金所得)の低下等に求めている(図1)。

開業率と事業者対被雇用者収入比率の関係

つまり、低成長が新規の事業機会を狭めると共に、雇用者ではなく個人企業者となることのメリットが少なくなったことが、開業率の低下の原因であると論じているのである。思い返すと筆者が子供の頃、接した中小企業者の社長さんのイメージは、「お金持ちのおっちゃん」であったが、今は違うようだ。つまり、そもそもリスクの多い試みである開業を行うには、現在の個人企業者の収入は割に合わないのである。

日本は何故「起業家社会」でなくなってしまったのか

上記のように白書では、事業者対雇用者収入比率の低下を「起業家社会」の阻害の大きな要因の1つであるとしている。しかしながら、さらにいうと何故、事業者対雇用者収入比率は低下したのであろうか?

前者について手がかりとなる説明が1995年ノーベル経済学賞受賞者のルーカスによって試みられている(1978年)。彼の議論は、わかりやすくいうとオートメーション等の機械の導入が労働者を不完全にしか置き換えない限り、機械の導入が労働需要を増加させ賃金を上昇させる。その結果、機械の導入で生産性の上昇しない経営者に比べ雇用者の所得が上昇、開業数が減少し自営業者数が減少するというものである。ルーカスはこの説明について精緻な数理モデルを展開しその実証を提供しているが、わが国の長期的な開業者数の増加とこの十年の反転を説明するには困難である。

この点についての筆者の仮説は、中高齢化の影響である。すなわち、労働者の平均年齢の上昇は年功賃金を前提としたわが国の雇用-賃金システムのもとでは、平均賃金上昇を生む。このことを通じて、加齢による収入増が少ない自営業者収入と勤労者収入の格差を拡大させるのである。同時に大きなウエイトを占めるようになった中高齢の企業特殊技能依存型の労働者は勤労者から自営業者へ転換することが少ないのである。かくして年功賃金のもとでは労働力の中高年齢化により事業者対雇用者収入比率の低下が発生し、開業率の低下をもたらす可能性があるのである。

また、日本の労働力の中核となっている中高齢労働者の賃金が企業内訓練による企業特殊技能の蓄積に基づく年功賃金を前提としているとすると、失敗した中高年起業家が労働者として一旦、復帰して同僚と同じ賃金を得ながら所与の充電期間の後、経営者として再起することも困難である。かくして一度の起業家としての失敗が人生の選択肢を大幅に縮めるのである。

こうしてみると中高齢化が進む中、企業内訓練-企業内特殊技能-年功賃金を取り結ぶ日本経済を前提に個人の就業活動の流動性を基盤とする本格的「起業家社会」を構築することには存外な困難があるのかもしれない。

「起業家社会」に向けて-わが国の課題

以上、「起業家社会」へのわが国の転換を阻むものとして企業内訓練-企業内特殊技能-年功賃金を取り結ぶ日本の労働システムの問題を提起した。この問題は退職金を考慮に入れるとさらに当てはまるであろう。退職金における勧奨退職と依願退職の差、勤続年数に比例して急騰する支給額は、大企業の有能な中高年齢層が、組織を離脱して起業するネックとなると考えられるからである。

鑑みるに20世紀、日本は世紀の初頭に生じた第二次産業革命の流れを最も忠実に捉え工業化の優等生となった国であった。そのなかで生まれた「日本型雇用システム」は21世紀における新しいパラダイムとして通用しないところが多々ある。

西欧の現在までの教訓では「起業家社会」的モデル以外に経済の再生の方途は無いことも事実である。ということで日本もこの方向を進めるしかないと、そう考えるならば、労働システムを政策手段によりどのように変化させていくか。今後の実証研究や議論がそこに光を当てることを望むものである。

2002年5月14日

2002年5月14日掲載

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