「市場原理」は、神の遣い、それとも悪魔の手先-少数説的経済用語解説-

斎藤 浩
上席客員研究員

『歌は世に連れ、世は歌に連れ』ではないが、経済用語も世に連れ「抵抗勢力の象徴」にされたり、「改革の旗手」とされたりする。

本稿では、最近流行った経済用語で、ちょっと違うふうに説明してあげれば理解しやすいのにと思われるものを取り上げてみたい。ただし、経済学的素養と権威に欠ける筆者の全くの「少数説的無責任」解説ですので、入試や学術論文での引用は、お勧めできません。

少数説的「市場原理」の重要な本質とは?

数年前から金融ビッグバンや規制緩和で盛んに指導的役割を果たしてきた言葉に「市場原理」がある。護送船団や既得権者等の旧弊を打破する原理としてまさに神の見えざる手の勢いである。 他方で「市場原理」は、弱肉強食の非情な世界を生み出す悪魔の手先のごとく嫌われたりもする。「なんでも自由な競争に任せておいたら弱者は見棄てられる」という社会派的反論から「経済学的にも『市場の失敗』ということが認められているはずだ」という理論派的なものまで千差万別である。

この手の論争は、市場原理イコール「自由競争とその結果の是認」という理解から出発しているのが特徴である。従って、市場原理の「結果」が間違っていると思う人は、行政の介入を要求し、逆に介入に反対の人は、「市場原理に反する」と排除しようとする。

私の少数説は、日本における市場原理の重要な本質は、「競争とその結果の是認」にあるのではなく、「市場の参加者が自由に行動を変えることが出来るプロセス」という点にあるというものである。

株価買支え対策は、市場原理に反するか

たとえば、株価が下がるとPKOは是か非かという政策論争が起こる。そこで反対の論拠として市場原理の登場と相成るが、最近は「為替介入が許されているなら、株価介入も同じ」という強力なライバルも出てきた。 経済学的論争はさておいて、少数説的解釈ではその答えはこうなる。

もし、株式市場の参加者が、政府が株価を上げるために株を買うということを知っても何も行動を変えなければ、株価は上がるはずである。たとえば、現在でもかなりの行政分野で残っているように、お上たる官庁が「こうなるべきだ」と宣言して行政介入をしてきた時に、お上の意向に逆らわないことが関係者の明示的な(あるいは暗黙の)了解となっていれば、実現の可能性は高い(通常は、そのことが「関係者の平均的な利益」を保障していることで「従うこと」のインセンティブとなっている)。

しかし、株式市場が市場原理で動いていると、参加者は、お上の意向を無視し、あるいは逆手にとって儲けを目指して動くことになる。そういう場では、実は手の内を見せた方が負けである。

しかし、PKO側は、株価を上げたい、だから「株を買う」といいたくなるし、いわないと上手くいった時に「政府の対策として誉めてもらえない」のだから、もうそれだけで勝ち目は少ないといわざるを得ない。実際に以下のようにこちらの手は見え見えなのである。

1)どの株を買うかは明らかにしないというが、株価とはすなわち日経225のことなので、それだけで東証上場の225銘柄に絞られる。
2)購入資金は、国の金(普通は、簡保)なので、暴落の危険のある企業は避ける。他方で大型株=超大企業でないと多額のPKO資金で買えない。そうなれば、特定の優良会社に違いない。多分、10社くらいに絞るのは、そう困難ではない。
3)PKO側は、株価を上げるのが目的なので「買いの一手」である。
さて、特定の10社の株を現在の水準より高い値段で大量に買うと分かったら、市場参加者がどういう行動を起こすか、それを推理してみよう。

1つの推理は、上がると分かっている株は買うに限るとばかり、国と一緒になって買いが入り、株価引き上げ効果が何倍も出てくるのでないか、というもの。

でも市場参加者は、無限に資金があるわけではないので、その調達のために値上がりする銘柄以外の株を売却する。そうすると、下がる株も出てくるから「平均株価」が上がる効果は、期待できないことになる。また、国が無理して買っている間だけの値上がりなら、高値のうちに売るに限るとばかり、買った株自体の値上がりも長続きしないかもしれない。

悪知恵を働かせるものが儲ける世界はいただけない?

とはいえ、本当のところはどうなるか分からない。確実なことは、PKOの対象となる株を的中させたファンドはボロ儲けできることと株式売買が活発になって証券会社に手数料が入ることくらいである。

結論は、株価対策としての買い上げは、市場原理に反するのではなく、市場原理の下では平均株価を上げる効果があるかどうか分からないのに副作用としての害が大きいということである。副作用とは、一部の「賢い」ファンドを儲けさせることではなく、「一部の人のみが国の政策で儲けて、株価は上がらなかった=多くの人は損をした」という国民の不信感であり、その結果、個人の株離れに拍車をかける危険があることである。

多くの国民は、政策に結果を期待する。これは納税者として当然である。でも実は、経済社会の国際化のなかで、「制度が結果を保証できる」政策分野は減少している。その理由は、お上が「威光」を示してもそれを認めない人が増えており、逆を行くほうが儲かるケースもあるからだ。しかも規制緩和でお上が無理やり従わせることが出来なくなっている。

これからの政策や制度は、「結果」を保証するのではなく、みんなが自由に行動するという前提でどのように市場が動くかを推理し、「そのほうが得する」という形で誘導することが主流とならざるを得ないのでなかろうか。

今流行りの不良債権処理もそういう意味では、政府は「○年以内に処理完了します」と宣言するのではなく、「○年で処理しないと経済が大変になるので、処理をした銀行に恩典を与え、しなかった銀行には経済的損失が発生するような制度を作ります。でも処理するのはあくまでも銀行です」というほうが正しいのではないかと思う。「自由競争によって正しい結果を保証してくれるのでそれを受け入れろ」ということが市場原理であるという説明は、少数説的に見ると日本人には受け入れられない「悪知恵を働かせて儲ける世界」である。これはその責任を一手に引き受けさせられる「市場原理」からすると全く迷惑な話である。むしろ、市場原理は、日本には、お上の威光に従わない人たちも含めて、公平にゲームを行うための「新しいルール」が必要であるということを示すための言葉として使ってほしいと思っているのではないだろうか。

2002年1月22日

2002年1月22日掲載