経済モデルで分析するWTOの効果

川崎 研一
上席客員研究員

2001年11月に開催された第4回WTO閣僚会議では、新たな多角的貿易交渉(新ラウンド)が始められることとなった。中国、台湾のWTO加盟も決まり、より広範な体制で貿易・投資の自由化が進められることが期待される。国際経済社会では、一貫して貿易の自由化が進められるなど、グローバル化の過程で、さまざまな分野において経済構造改革が進められている。そのような改革が日本経済に与える影響は、決して小さなものではない。政策当事者には、その影響、効果を事前に予測し、的確な対応策を図ることが求められる。痛みを伴う改革を進めるためには、まず、その痛みがどの程度のものか分からなければ、不安を打ち消すことはできない。また、その上で、一定の対応策を描けなければ、責任を持った対応も図れない。

本稿では、経済モデルによるシミュレーション分析を論ずる。経済モデルを用いれば、我々が経験したことがなく、事前には予見できない側面についても、影響の重要度につき、相対的な順序も示しつつ、示唆に富んだ情報を得ることができる。特定の課題を巡って、いくつかの異なる可能性が有り得る場合には、モデル分析は、そうした見解の不一致をより明確に識別する枠組みを与えてくれる。応用一般均衡世界貿易モデルによれば、関税率の引下げを始めとする貿易の自由化は、取引きされる財の価格を低下させ、貿易量を増大させる。また、輸入価格の下落は、輸出国側の生産を増大させるだけでなく、輸入国側でも貿易障壁による国内市場の歪みを削減し、生産資源の利用を効率的にする。これらの効果があいまって、世界的規模で生産が拡大し、各国における所得や厚生水準も増加する。

WTO体制の下で、全世界で貿易が自由化される場合の効果を試算してみると、重要な示唆がいくつか得られる。第一に、実質GDPで見た生産の増加効果は、先進国よりも発展途上国において顕著になる。財貿易の自由化に関する限り、現在の関税・非関税障壁が高い経済ほど、今後の自由化による経済の効率性改善の余地が大きく、また、それらの撤廃による便益も相対的に大きくなる。確かに、貿易収支の変化で見れば、黒字化するのは我が国のほか、米国、EUの三大経済圏が中心となる。他方、発展途上国においては、総じて、貿易収支は赤字化するものの、同時に資本収支が黒字化し、資本ストックの増加が著しくなる。資本ストックの増加は、長期的な経済成長の原動力となる。貿易の自由化に当たっては、資本形成メカニズムが重要な役割を持っている。動態的な貿易、所得、投資の連関に加えて、国際的な資本移動の動向も考慮することが重要である。貿易を自由化する際には、投資の自由化も合せて進めることが肝要である。

第二に、多角的自由化の経済効果は、地域的取組に比べて、数量的には格段に大きい。シンガポールなど、現在、我が国と二国間でのFTA締結が検討されている国々との貿易自由化は、我が国経済に対する効果を見る限り、必ずしも大きなものにはならない。我が国が特定の国と自由貿易協定を締結する場合、そのこと自身が究極的な目的ではなく、より大きな自由化の枠組へ向けた、より多くの便益を享受できる統合促進の契機と位置付けることの方が合理的である。なお、貿易の自由化に当たっては、自国は自由化しないものの、諸外国の自由化の便益は享受するという意味での「ただ乗り」効果が取り上げられてきた。ただし、シミュレーション分析によれば、そのような「ただ乗り」効果は限られたものである。貿易自由化の経済的効果を享受するためには、自らがその自由化の行動に参加することが肝要である。

第三に、貿易自由化に当たっては、マクロ的な生産、所得の変化に比べ、産業レベルでの変化の方が著しく大きくなる。重要なことは、資源配分の効率化を重視する応用一般均衡モデルが示唆する経済全体での厚生の改善は、そのような産業間での生産要素の再配分が円滑に調整されることを前提としていることである。すなわち、そのような調整が円滑に行われなければ、マクロ的な経済便益は実現しないともいえる。我が国の場合、シミュレーション結果からは、資源配分の改善効果は、そのほとんどが農業分野における自由化によってもたらせることが示されている。また、実質GDPの変化に対しても、農業分野の自由化はプラスの効果をもっており、特に、民間消費の増加に対する寄与が大きくなっている。ただし、農業部門においては、生産、労働ともに、大幅な縮減が避けられない。我が国自身にとって、非効率的な部門における自由化による効率性向上が必要なことはいうまでもない。机上のシミュレーション結果が示唆する経済的便益を享受するためには、その調整のための政策の在り方が鍵を握っている。そのような処方箋を検討するためには、やはり、モデル分析による定量的な診断がその第一歩となるのである。

2001年12月27日

2001年12月27日掲載

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