個人は守られるが、企業は守られない社会

田中 伸男
上席研究員

構造改革のポイントは個人の能力発揮

小泉政権が6月26日に打ち出した「経済財政運営の基本方針」、いわゆる骨太の方針には20回以上にわたって個人という言葉が出てくる。「個人の自助努力を支援」、「個人の意欲を阻害しない頑張りがいのある社会システム」、「個人のライフサイクルの多様化等に対応した制度設計の見直し」など小泉内閣の構造改革のポイントの一つは個人の持てる能力の発露を妨げている制度をいかに改革するかにあると思う。

当研究所の政策シンポジウムシリーズ第1回はソーシャルセーフティネットの制度設計についてであった。ここでも企業をいかに社会的安全弁としての責任から解放し、本来の利益最大化と成長に専念してもらうかが議論となった。例えば、シンポジウムでの児玉研究員による三井三池炭坑閉山のケーススタディでは、90年代半ばの不況期にもかかわらず、閉山に伴う失業者で再就職を希望する者の80%が地域に無事転職できたメカニズムが明らかにされた。そこでのインセンティブのつけ方、官民の役割分担、さまざまな訓練機関などの役割には学ぶべきところが多い。

戦後の日本では高度成長のもとで大企業による福利厚生、能力研修、年功序列、終身雇用という形で個人生活の保障が図られてきた。反対に個人は他によりよい職場があったとしても、そこへの移動をあきらめるという形で企業にコミットした。労働省の雇用政策もできるだけ失業を出さないように企業内の雇用維持を目的とする制度が主流であった。失業者対策事業という言葉があるが、これなども人が余る地域で公共事業を行うことで、建設業での雇用維持を図る政策である。

しかしこれでは低生産性部門から高生産性部門へ資源を移動することによってトータルの効率を上げることはできない。つぶれるべき企業には退場いただき、失業者は再訓練を経て、あらたな成長分野へ移動する。これが構造改革の本質である。ここで政府が行うべきことは変化を止めることではなく、雇用や資本などの資源移動をスムーズに行うための新たな制度設計である。

痛みを伴う構造改革とよく言われるが、企業に囲い込まれた状態から解放されて、よりよく個人の能力を発揮しうる職場に移動することは米国の常識では痛みではない。むしろ、職を変わることで個人の価値が高まると考えられている。しかし、米国でも一生のうち3回、4回と企業を変わるのが当たり前になったのは最近のことであり、30年前は同じ企業に長く勤めるのがむしろ当然であったようだ。日本人の履歴書は同一企業内の職場異動歴が入社以来ずらずらと書かれているものであるのに対し、米国人のそれは最近の職場から始まり、逆に過去へ遡っていく。履歴書は最近の職場での業績評価から初め、自分の能力、経験を過不足なく作文した自分個人に関するセールストークであり、前職での給与も自分を市場で売る場合の値段を表す最も大切な指標として記入される。

日本における最近の転職相談も個人の経験、能力を徹底的に評価し、紙にすることから始まると聞いたが、まさに米国流のキャリアコンサルティングが我が国でも始まろうとしているのだ。新しい労働力市場には新しい仲介機関が必要になる。ある大手企業が倒産に当たり従業員の再雇用のため、民間の再就職コンサルティングサービスに依頼したところ、たいへん素早く再就職先が見つけられたという。なぜなら彼らには成功による歩合でフィーを払う形になっているからである。派遣法の規制緩和もさらに一層進めるべきであろう。新しい労働市場では従来のハローワークもむしろ民営化し、いろいろな競争にさらされる必要があるのではないか。知識をベースとする経済においては個人こそ最も重要な資産であり、これを市場で正しく評価、配分できる制度設計が今求められている。

求められる企業側の変革。大企業による人材の囲い込みが個人の能力を潰す

他方、企業サイドには何が求められているのか? 当研究所では7月にハーバード大学のボールドウィン教授を招いて「モジュール化」に関するセミナーを開催した。ここでは米国のコンピュータ産業におけるモジュール型のIBM360の成功が語られた。そこではIBM自身は各モジュールでの技術者のスピンオフを招き没落したが、他方で独立した技術者がデバイス産業を多数誕生させ、それがシリコンバレー隆盛の原因となったことが明らかにされた。

これは、日本でシリコンバレーモデルが未だ見られないのは大企業による事業の選択と集中(リストラ)が進まずに、有能な人材が未だ囲い込まれていることにもその原因があるという教訓である。わたしの友人にシンガポールで「日本人による日本人のための」ヘッジファンドをやっている人がいる。時々彼のところに日本の大手金融機関から若手のスタッフにヘッジの手ほどきをしてくれとの依頼がくるそうである。彼らは半年も彼のもとでしごけば、立派に技術をマスターできるという。しかし彼らは東京の本社に戻っても、まったくその能力を発揮しない。なぜなら会社の報酬制度が成功ベースになっていないため、有能な若者は一度儲ければ残りの一年を遊んで暮らしてしまうからである。また、だめな社員は叱咤激励されるため、ますます溝を深くするというシステム設計になっているからであるという。したがって友人氏はいくらヘッジ技術を教えてもその金融機関は絶対自分の競争相手にならないから心配ないのですよと笑っていた。日本人個人に能力は十分あるが、それを活かせないのは大組織内のシステムが変われないことにあるようだ。

90年代は「失われた10年」とよくいわれるが、政府の産業政策の中心は企業が選択と集中をするためのサプライサイド改革であった。持ち株会社の開放、会社分割法制、産業再生法、民事再生法、ストックオプション、国際標準の会計原則、確定拠出型年金(日本型401kプラン)、などなど。80年代の欧米の制度を学び、企業が自らを改革するための法制、税制の整備はかなり進んだといえるだろう。これらの制度を活用し、この不況期に史上最高益を挙げている企業も多いと聞いた。

また、今年の通常国会にかかる商法改正では社長の意向に支配されない社外取締役の充実によるコーポレートガバナンスの強化が課題になっている。今後時価会計の徹底で株式持ち合いが解消に向かえば、日本企業は外国資本のM&Aにさらされることで企業のガバナンスに刺激を与えることになる。カルロス・ゴーンは今や「国民的英雄」になったが、日産の改革、再生はアウトサイダーでなければできなかったことを示している。政府が対内直接投資を歓迎しているのも新しいプレーヤーが競争を増し、市場を活性化することで生産性が上がり、消費者利益になるからである(ハゲタカ外資になんで美味しい資産を格安で売り払うのかという批判があるが、これなど現状の変化を望まない守旧派利益集団の議論である)。

政府機関もリストラの例外ではない。経済産業研究所は自ら非公務員型の独立行政法人となり、そのパフォーマンスは常に世の中の批判と評価を受ける。研究フェローによる制度分析と政策提言はその質が厳しく問われる。データ整備、総務、広報、カンファレンス、IT、会計などの専門スタッフも各分野で実績が問われる。それぞれの個人をプロフェッショナルとして扱い、柔軟な雇用形態、報酬制度、目標管理評価制度などを通じ個人の能力を最大限引き出すことで、研究所全体としてのパフォーマンスを最大化しようとしている。

新たなビジネスモデル創出の為には

NHKに「プロジェクトX」という人気番組があるそうだが、「皆で苦労して頑張ればなんとかなる」という時代は終わった。今の日本に求められているのはまさにそのような戦後の成功体験を捨てることである。しかし他方で「リストラ」とは単に首切りや減給をすれば良いということではないはずだ。現在でも十分にある個人、特にこれまで十分使われてこなかった女性や高齢者の能力を最大限に発揮しうるような雇用制度、年金、報酬制度の導入や持ち株会社、スピンオフ、情報技術などをつかった組織改革を通じ、新しいビジネスモデルを作り出すことも可能なはずである。また、外資系であろうと雇用を創りだす企業は歓迎されるべきである。「企業(社長、株主)にとっては外資などによるM&Aや倒産という痛みを伴うが、そこで転職する個人は意欲と努力にもよるが、原則すべて救われる」これがまさに小泉改革の目指す「個人は救うが、企業は救わない」構造改革の本質であると考えるが、どうだろう。また、こう考えれば国民の間で小泉人気が落ちないのも頷けると思うのだが。

2001年12月4日

2001年12月4日掲載

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