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ネットワーク社会の神話と現実

表紙写真
執筆者 著:池田 信夫
出版社 東洋経済新報社/定価1800円+税
ISBN 4-492-22232-4
発行年月 2003年5月
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内容

マルクスとニーチェの世紀

20世紀に最大の影響をもたらした思想家は誰だったかと考えてみると、おそらくマルクスとニーチェだろう。彼らは、いずれも19世紀に死んだが、その思想は20世紀に社会主義やナチズムに利用され、大きな悲劇をもたらした。もちろん、その責任を彼らに負わせるのは見当違いだが、これぐらい人々の心に深く根を張った思想はそう多くない。しかも彼らが「ポスト構造主義」で最も多く語られるのを見てもわかるように、20世紀は彼らの思想を完全に清算したわけではない。
特にマルクス主義の影響の強さは、まだ相当なものだ。1990年代の「景気対策」に効果がなかったことは明らかなのに、なぜ市場に任せて解決しようとしないのか、と中央官庁の高官に聞いたら、「私の世代は、学生時代にマルクス主義の影響を受けて、資本主義は悪だという先入観がしみついている」といわれて驚いたことがある。銀行行政や通信行政にも見られる、市場を信用しないで官庁が民間を「善導」しようという発想の背後にあるのは、ケインズよりもむしろマルクスなのである。戦後の復興期を支えた理論的指導者は、有沢広巳などのマルクス主義者であり、自民党の指導者にも岸信介などの「革新官僚」出身者が少なくなかった。

西側の先進国の中で、今でもマルクス主義の影響が強いのは、フランスとイタリアだが、いずれも中央政府に権力が集中して政治腐敗がひどいこと、またカトリック系で宗教的・地域的な共同体の拘束力が強いことが日本と共通している。つまりマルクス主義が日本で大きな影響力を持った原因は、近代化の過程で生じる貧富の格差などの資本主義の歪みへの批判が、それを超える国家や共同体への志向になったためと考えられる。

しかし革新官僚が戦争推進の中核となり、戦後は「保守反動」に転向したことにも見られるように、マルクス主義は日本の近代の陰画にすぎなかった。それは天皇を中心とする秩序に逆らっているように見えながら、市場メカニズムを否定し、国家によって経済を管理しようとする点で、明治以来の国家主義の「鬼子」であり、実は同じ遺伝子を共有しているのである。

主権国家は、17世紀の欧州で生まれた特殊な国家概念である。しかも、その国境は欧州における休戦ラインにすぎず、「国民国家」という概念も後からつけた理屈である。このような国家モデルは、近代国家のあり方として唯一でもなければ最善でもない。これまでの経済史の教科書では、中世末期の欧州で、地方国家の分立によって地域を超えた通商が阻害され、早く国家を統一したオランダや英国が近代的な所有権を確立したことが産業資本主義を成立させたということになっているが、実際には、中世にも契約の履行を守るシステムはあった。

通商の範囲が地域を超えたときにも、最初に欧州全体を支配したのは商人ギルドだった。このような職能団体の権力は、しばしば封建領主よりも強く、不当な税金を取る地方国家にギルドやハンザ同盟がボイコットを行って対抗し、国家の側が譲歩するケースは少なくなかった。契約の認証や履行の保証などについても、全欧州的な「法の商人」と呼ばれる司法組織があり、地域を超えた紛争の処理を行っていたこともわかってきた。つまり、通商の拡大にとって国家は必須ではなかったのである。

では近代初頭の「制度間競争」で主権国家が勝利を収めたのはなぜだったのか、という点については諸説がわかれるが、最近の研究では、むしろ共同体やギルドの契約保証システムの機能を近代国家が「乗っ取る」形で代行するようになったという*1。つまり中世末期の長期にわたる戦争の中で軍隊の比重が大きくなり、戦争が終わってからも彼らを養うための失業対策として「警察」という組織が作られ、司法も警察の強制力に基礎を置くようになったというのである。

このように近代の国家モデルとして主権国家が選ばれたのは、それが統治システムとしてすぐれていたからではない。中世末期に封建制に代わるモデルとして現れた制度としては、英仏を中心とする主権国家の他に、ドイツを中心とする職能団体とイタリアを中心とする都市国家があったが、最終的に主権国家が勝利を収めたのは、それが軍事力において勝っていたためである。特に戦争が資本集約的になるにつれて、都市国家の規模では戦費を調達することが困難になり、都市が国家に統合されていった。主権とは、このような軍事的な支配権にもとづく概念であり、マルクスもいうように、近代国家はその誕生以来「爪先まで血に染まった」軍事システムなのである。

近代社会の軍事性

近代社会の中核となっている「市民」の概念も、こうした近代国家の軍事的な性格に強く規定されている。その特徴は、自営業者である市民が主権者であり、歩兵として軍事的な責任も負うという点である。ミシェル・フーコーは、近代社会の「規律」を意味するdisciplineという言葉は、もとは軍事的な「訓練」を意味する言葉だったことを指摘している。
こうした市民=歩兵という制度が軍事的に最強となったのは、彼らが領土の所有者でもあることによって「自分の財産を守る」という強いインセンティヴを持つからである。欧州でも、16世紀までは戦力の中心は傭兵だったが、戦争が日常化するにつれて、傭兵が複数の国家に雇われて私的な略奪を行うなど、軍規が乱れて戦力が低下し、徴兵制によって市民を歩兵とする制度が主流になった。

そして平時になると、軍事・警察的な「死の管理」を行うシステムが、民事事件や社会福祉に転用されて国民の生活を管理するようになる。これがフーコーのいう「生政治」である。ここでは、市民から武器を取り上げて国家が独占し、ホッブズ的な「万人の万人に対する戦い」を「国家の万人に対する戦い」によって置き換えることで「平和」が維持される。

この制度には合理性がある。安全保障サービスには「規模の経済」があるので、各人が武装して自衛する米国型の治安維持システムは、危険で非効率である。哲学者ロバート・ノージックがいうように、領土の中に複数の権力が共存する「保護組合」では、マフィア的な「私的警察」が乱立して、マフィア間の戦争が頻発するから、一定の領土には1つの「最小国家」が存在することが望ましい。

しかし、この制度が正常に機能するには、武力を独占している国家がそれを濫用しないという歯止めが必要である。近代の法律は、基本的にはこのように武力を独占する国家(あるいは国王)から市民が自衛するための社会契約である。特に重要なのは、国家が恣意的に国民の財産を収奪しないように、その権利を私有財産として標準化し、法的な手続きによってしか移転できないものとし、1個人に1つの財産を対応させることが重要である。1つの資産に複数の権利者が共存する「アンチコモンズ」状態では、現在のロシアのようにマフィアが不可欠になってしまうからである。

経済学者の通念とは違い、コモンズはいつも悲劇になったわけではない。むしろ近代以前には、一定の共同体の中で入会地を相互主義的な規範によって保守するしくみが世界的に共通だった。しかし、こうした分権的なガバナンスは、共同体間の交流が増えて境界が曖昧になると、外部からの侵入や「ただ乗り」を招き、維持が困難になる。こうしたオープンな世界では、土地を分割し、その所有権を国家によって集権的に保障するしくみが有効になるのである。

しかし、すべての財産をポータブルにして所有権によって市民に結びつけるのは、かなり特殊な制度である。特に、土地や情報などの無形の資産に所有権を設定するには、登記や特許などの手続きが必要だが、こうした所有権の正当性は自明ではない。通説では、特許権が早く確立した国から産業革命が起こったとされるが、これも最近の研究では疑問視されている。当時、特許の取得は政治的に困難だったため、重要な発明はほとんど特許にならず、歴史に名を残しているワットなどの発明家は、最初に特許を取っただけである。産業革命には起業家たちの情報交換が大きな役割を果たし、こうした学習効果は特許によるインセンティヴ効果よりも大きかったと推定される*2

もう1つの問題は、所有権が近代国家の根拠となっている「領土」の概念に依存しているということである。戦争とは、基本的には土地の争奪戦であり、刑罰制度も犯罪者の肉体が領土の中にあることを前提としている。ドゥルーズ=ガタリが巧みに表現したように、資本主義は、既存の共同体を破壊してあらゆる商品を「脱領土化」する一方で、所有権という形でそれを「再領土化」して秩序の中に回収する制度である。

しかしインターネットは、資本主義をはるかに上回るスピードであらゆる情報を脱領土化する一方、それを国家や肉体と切り離す仮想的な存在とすることによって再領土化を不可能にし、資本主義の存立根拠を危うくし始めている。興味深いのは、ここでも中世末期と同じように、職能団体(NGO)と国際機関の制度間競争が起こっていることである。

新たな戦争の時代?

21世紀の社会基盤が(少なくとも前半は)インターネットになるとすれば、この近代国家のローカルな主権とインターネットのグローバルな情報共有システムの葛藤は、これからも拡大してゆくだろう。ナプスターなどのP2Pシステムは、インターネットのE2Eアーキテクチャの本質であり、それがユーザーの圧倒的な支持を受ける一方、企業から訴訟を起こされる事実は、問題が旧秩序とインターネットの「戦争」の域に達しつつあることを示している。
戦争一般が悪だというのも、近代(というより20世紀後半)のイデオロギーである。もともと戦争は、硬直化した秩序を定期的に更新するため、共同体に埋め込まれた制度であり、西欧でも都市国家はほとんど恒常的に戦争を行ってきた。これによって軍事力=経済力の強い都市が生き延び、進化的なメカニズムによって効率的な制度が選ばれてきたのである。

しかし近代の初期に、欧州各国の結託によって既存秩序を正当化するために考え出された概念が主権国家である。戦争によって分割された領土を固定して「不戦」を誓う条約は、平和という名のもとに勝者の既得権を守るしくみである。近代国家は、対外的な戦争を抑止するとともに、国内的にはドゥルーズ=ガタリのいう「戦争機械」を抑圧することによって成立しているカルテルなのである。核拡散防止条約(NPT)に反抗するイラクや北朝鮮を米国が全力をあげて弾圧するのも、それが既存の核保有国による国際秩序を掘り崩すからだ。サダム・フセインや金正日よりも(その何万倍もの軍事力を持つ)ジョージ・W・ブッシュのほうが正気であるという先験的な保証はない。

もちろん、これはイラクや北朝鮮の軍事的冒険主義を正当化するものではない。領土を争う戦争の場合には、どちらが正しくても戦争は望ましくないので、国際秩序という名のカルテルも正当化されうる。しかし情報をめぐる戦争では、物理的には何も失われないし、軍事的に略奪することに戦略的な意味はない。インターネットは、主権国家の物理的な権力を無効にし、近代社会を根本的に「脱軍事化」しているのである。

中国で使われているソフトウェアの九〇パーセント以上は海賊版だといわれるが、こうして途上国が先進国の技術を学ぶことによって、開発援助よりも効果的に技術移転ができる。日本が戦後、急速な発達を遂げたのも米国の技術を「盗んだ」からだが、それは結果的には高い品質の製品を生み出し、世界全体の福祉水準を引き上げた。アフリカ南部では、「国境なき医師団」が「非合法」の代用薬を使ってAIDSの治療を行っている。欧米の製薬会社が特許を持つ正規の薬がきわめて高価なためである。歴史的に西欧世界が第三世界から収奪してきたものの大きさに比べれば、そのごく一部を情報の複製という形で還元することはむしろ当然である。

こうした「情報戦争」は悪とは限らないし、既存の秩序を守ることによる「平和」が、戦争より望ましいとも限らない。もしも政府によって管理されていたら、WWWは生まれていなかっただろう。P2Pによって著作権法が空文化したら、情報から価値を回収する技術革新や制度改革が進むかもしれない。人々の創造性を育てるには、著作権によって情報を独占するよりも効率の高い方法はいくらでも考えられる。インターネットは、硬直化した「資本主義の平和」を解体する、脱軍事化された「戦争機械」であり、その戦線はこれから拡大してゆくだろう。

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